電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

繰り返されるよくある話――劣化するコピー

先日『永久保存版』の高井守(汎田礼)氏が、呉智英夫子について触れ「その影響は巡り巡って2ちゃんねるの書き込みまで及んでいます。」と書いていた。
個人的に、これには少し補足が必要だと感じたので、勝手に説明させていただく。

高井氏が言わんとするのは、昨今の2chをはじめとするネット言説に溢れる「人権なんで意味ないんだ」「差別はしても良いのだ」という思考のことを言っているのだろう。

実際、わたしとしては一部違和感もあるが、こういう見方↓をしている人もいる。

2chの右派的な書き込みの直接のルーツ(というかそのまんま)は
宮島理中宮崇といった「プチ論壇」であり、もうすこし遡れば浅羽
大月を筆頭に呉智英中野翠といったような「サブカル保守」です

確かに、呉智英夫子は80年代にあって、戦後民主主義の空疎なタテマエ――人間は平等であるべきである、差別はいけない、「支那」は差別用語だからいけない、とかいったことを、いともさらりと解体してみせた偉大な先駆者だった。
冷戦体制が崩壊し10年が過ぎ、戦後民主主義左翼言説がすっかり説得力を失った現在、後出しジャンケンよろしく、左翼言説の全否定と在日やら部落やら女性やらあらゆる社会的弱者への差別をもはや一切タブーと思わない若い世代のネット言説は、夫子の成果の便乗者だと高井氏は言いたいのかも知れない。

だとすればわたしは高井氏に同感もするのだが、しかし微妙なずれも感じる。
率直な話、現在ネット上でためらいなく「チョン氏ね」とか書く若い世代の多くが、呉智英なんて読んでもいないし尊敬もしてないんじゃないかなあ、と。
しかし、昔も今もインテリの言説ってこんなもんだったんだろうなあ、と。

つまり、皮肉極まる言い方をすれば、今や、差別を一切タブーと思わぬ2ch世代にとって、呉智英夫子は、ドストエフスキーの『悪霊』で、前時代の価値観などはなから視野になく狂信的ニヒリズムに走るピョートル・ヴェルホーヴェンスキーに対する、前時代の価値観の枠にありつつそれを相対化しようとしたスチュパン・ベルホーヴェンスキーみたいな存在なんじゃないか、と。

まあでも、いつの時代のどこの陣営でも似たような構造は繰り返されたんだろうなあ、とも思う。
またナチス前夜のヴァイマル時代のドイツの話だが、19世紀から議会制民主主義の枠内で社会主義を進めようとしてた社会民主党は、ロシア革命の影響下で出てきた共産党の若い世代の過激な連中に追い越され遂に潰れたし、旧プロイセン帝国の古き良き時代の復活を望んだ帝政派保守主義者(ビスマルク(←時代まちがい)ヒンデンブルクやフーゲンベルク)は、過激な新興極右のナチスを「若いのにアカと戦ってくれて偉い偉い」と言ってる内にナチスに追い越され乗っ取られた。

繰り返すが、確かに呉智英夫子は戦後民主主義の空疎なタテマエをさらりと解体した、これは偉業だ。しかし、呉智英夫子自身は別に粘着的差別主義者でもなんでもなかった。
とりあえず、せっかく夫子が「支那」という言葉は差別語ではない、という価値観を広めたのに、ネットでわざわざ差別的侮蔑的意味合いでシナシナと濫用する人間が増えたせいで、これを嫌がる声が高まり、夫子の地道な努力が踏みにじられ事態にはならないで欲しいとは思う。