電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

廃刊も間近な『噂の真相』中森明夫コラムを読む

なんでも、最近、80年代ノスタルジーネタ(YMOに『POPEYE』に『ホッドドッグプレス』に漫画『To-y』にプレ・バンドブーム……とかって辺りのことか)が一部で流行になりかけてるというんで、それ関係のコメンテーターを求められるが、そもそも80年代的感性(相対主義のスキゾ・キッズ、ってか)というのはスタルジーの対象になったりするべきものから一番遠い筈で、こんな矛盾はない――というような自論から、その手の依頼は基本的に断っているとかなんとか。
この中森コラムでの「〜〜という企画に声を掛けられたが、断った」というのは、毎回のようにあり、半ば逆説的に彼の人脈自慢のようなになっているが、80年代ノスタルジーネタ特集という、恐らく中森が選ばれるのは最適の人選の筈の仕事を断っているというのは、ある意味での彼のプライドの現れ、あるいは今や80年代がノスタルジーの対象となるという皮肉への忸怩たる思いの発露、ってことなのかも知れない。
TVドラマや映画や漫画やアニメに限らず、60、70年代ノスタルジー商品化というのはもう珍しくなくなり、やり尽くされてる、そこで80年代が更に懐古の対象となるのもわかる。が、実際、80年代文化というのは本来もっとも懐古の対象になったりするのに不適なものの筈だった。
恥ずかしい話だが、わたしも90年前後には、当時の若者の一部にあったように、60、70年代文化に憧れ、フロンティア精神のあった先行世代を羨ましがり、もはや自分らの世代は全てやり尽くされてパロディしかなく面白くない、20年早く生まれたかった、とかそういう発想をしたこともある。
んが、しばらく前、偶然見つけたサイトで、わたしより10歳年下の1980年生まれでニューアカ現代思想にハマった大学院生が、わたしにとっては「全てやり尽くされてパロディしかなく面白くない」としか思えなかった筈の1980年代への憧れを語ってたのを読み、膝から力が抜ける思いがした。
果たして20年後、我々はその時代の若者を羨ましがらせられるものを創り出せるのか?