電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

普遍性の有る洗脳、無い洗脳

何が言いたかったかというと、恐ろしく迂遠になったが、我々は日頃「洗脳」と聞くと、何か非常に非日常的で特殊なこと――閉鎖空間に監禁して薬物やら特殊な映像暗示で人の心を根本から変えるもの――とでも思っているが、オウムでも北朝鮮でも、一次的にであれ「洗脳」された人間というのは、自分の意志で(ここが重要!)、洗脳者が刷り込んだ慣習的価値観を正当と思っている(思わされている)のだ、ということである。
昨年、坪内祐三氏が『諸君!』で、朝鮮戦争で共産軍の捕虜になったアメリカ兵が洗脳されて暗殺を働くという内容の小説を論じていたが、どうも当時のアメリカ人には、洗脳というのは社会慣習の(価値観の)刷り込みである、ということが理解されておらず、魔法のように人の意志を自在に操れるもののように思われてたらしい。
端的に言えば、洗脳とは単なる「ローカルルールの強制」(ローカルルールを皆で正しいと思い込もうとすること)とも言えるんじゃないか。その教団だけのローカルルール、その国家だけのローカルルール……そんなものは幾らでもある。スーパーフリー内ではどんな非業なレイプも和姦と解釈するのがローカルルール、雪印では牛肉は偽装するのがローカルルール……とかね。
その中でも、殺人は悪い、とかいうのは、ローカルでない根源的、普遍的なルールと言えるんだろう。一人でローカルルールを作った宅間はまさに「一人オウム」というべきか。
無論、人間は社会的動物だから、慣習や規範やローカルルールから一切自由になることなどあり得ない(ならユナボマーのような世捨て人になるかだ)。ただローカルルールに絡め取られかけた時は、根源的、普遍的なルールに立ち返ることが必要ってことなんだろう。