電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

「東北の農村」を失った亜細亜主義者

一般には、どっちかといえば戦後民主主義リベラリストというイメージだった宮台が、北一輝亜細亜主義? といえば「おっ何事だ?」と注目する人も多いんじゃないかとは思うが、ウェブログのコメントとか、なんか今のところ評価は芳しくないように見える。
社会主義から土着的心情の前向きな利用という思考に至った北一輝をして

「不合理からの解放を希求する志向」と「合理性を弁証されざるものを護持しようとする志向」

の両立、なんて言い方は、わたしとしてはよくわかるし、同感もできる。
前者は、例えば、昔ながらのムラの共同体の理不尽な同調圧力とか根拠のない権威主義からの自由や解放を求める志向とかで、逆に後者には、例えば、利益や効率追求の学校社会、企業社会では形骸化名目化して別のものにすり替わってしまうしまう、年長者への敬意とか、日常的な挨拶の大事さとか(参照:http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040215)が挙げられるだろう。
とはいえ、今の情況に照らし合わせると、限界も感じざるを得ない。で、わたしが
「フランスでは反マクドナルド暴動が起きると共感する庶民がいるけど、日本で同じことをやったらキチガイ扱いされる、ってのは、つまりフランスとかは、まだ良くも悪くも、国内に農民がちゃんといて、食い物は自国産でまかなう気風が強いからだろ。
しかし日本は、すっかりおしなべて産業構造が第三次産業中心、消費中心(宮台先生がかつて言ったところの「成熟社会」)になっちまってるわけだよね。
そんな現在に、亜細亜主義とか言っても、それを支えるリアリティがないだろ、つまり、現実の北一輝やそれに従った青年将校には、眼に見える東北の農村の貧困ってもんがあったんだが、今はそれがないわけで、そこで北一輝なんて言ってもなあ……」
といったようなことを言うと、件の旧知人からこう突っ込まれた。
「あ、それは、東浩紀もメルマガ(波状言論)で同じことを言って批判してたらしいよ」
そうか。俺程度で思いつくことは、東でも言うか――いや、だが、同じことは20年も前から竹中労も指摘してるし、吉田司はそればかり詳細に言ってるともいえるぞ(笑)