電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

見えない「東北の農村」を見つける想像力

しかしだ、それもまたセカイ一挙把握願望なんぞを持つ若い時期特有のもんで、まっとうな社会生活を歩んでいけば、非近代の非合理には現実生活で直面することになるんじゃないか、と思うんだが……その一番わかりやすい例が冠婚葬祭じゃないか?
例えば、結婚しようと思えば、よほどお互いの実家から疎遠な立場を取れる場合でもない限り、日本では結婚とは、個人と個人の結婚ではなく家と家の結婚だと痛感させられるぞ、新郎の新婦のご兄弟姉妹のご職業は収入は学歴は……なんて空疎なカタログデータスペックが、いきなり意味を持ったりする、もっとも、それで人を計ってる側も、別に悪意なんか無いのだが、実際そんなもんしか明示化できる基準はなかったりする。
私事で恐縮だが、わたしも親父の葬式の席じゃ、母親と叔母(親父の姉)の妙な確執(傍目には、ただの個々人の好悪、相性の問題に過ぎないように見えるが、当人にはそれが大問題だったりする)、またその叔母を共通的にして母親と兄嫁夫婦が仲良くなる構図とか、色々なものを意図せず見させられたが、半径50メートルが自分にとっての世界で、その構成物は地縁血縁のリアリティに即した親類縁者ばかり、という昔からの日本人は、皆そうだったとも言える、っていうか、そう思うしかない、という結論に行き着きましたよ。
見えなくなったもんを見つけるのには、契機や場も必要なんだろうが、人間というものに対する想像力が要る。自分自身を筆頭に、人は単独で生きてるわけではない、必ずそこには、それを作った土地やらそこでの利害関係やら血縁者やらその職業やら学歴やらetcetcがある――って、まあ、当たり前のことなのだが……