電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

さらばタチコマ新たなる旅立ち完結編

今さらながら、深夜再放送が終わった『攻殻機動隊SAC2』。序盤から感じていたが、やっぱり、私的個人的にはパート1の方が俄然良かったと思える。
パート1は、前半、姿なき「笑い男」の事件をめぐる連続ストーリーだけでなく、一話完結の様々な単発事件があり、それらが『怪奇大作戦 未来版』のような雰囲気で結構よかった気がする。
要するに、パート1は、キャラクターやストーリー自体より「世界観」を見せて、「電脳時代でも人(の欲とそれが起こすもの)は変わらない」ということを様々な角度から見せた上、平穏な市民社会の中に溶け込んだ企業犯罪と官吏の不正を暴くものとして「笑い男」の事件が起きてきたというあたりの、リアリティの組み立てがうまかったんだと思う。
――が、それがパート2になると、一貫した連続ストーリーで、クゼというキャラの立ちすぎたテロリストを出して、難民問題だの、市街戦だの、未来の安保体制だの、大掛かりにポリティカルSFな要素を全面に出したはいいが、なんかリアルに迫ってくる気がしない。
要するに、当事者意識が感じられなかったのだ。
結局最後まで「難民」は顔のない群集でしかなく、個別具体性のある難民のキャラクターと、それを受け入れた日本の市民社会の一般人、また、難民を嫌悪する一般市民の差別感情(ここが重要!! ナチスとかを育てたのもコレだよ、大物右翼の陰謀家だけじゃなくてさ!!)とかいったものが、まったく描かれてない。
唯一面白かったのは、難民事件の自作自演を図る政府側のテロリストプロデューサー合田君が、自分の余りに平凡すぎる役人顔に嫌気がさしてわざと醜怪な顔に整形したとか、童貞を自称してた点とかだが……どーにも、村上龍『愛と幻想のファシズム』のゼロみたいな、黒幕演出家に回りたがる奴の、動機としてのショボい実像感とかがちっとも出てないし。
最終回、人工知能思考戦車のタチコマたちが再び自己犠牲で他の人間を救う場面はちょっと良かったが、考えてみると、この場面のためだけにパート1で一度死んだタチコマたちを復活させたというなら、宇宙戦艦ヤマトシリーズで、もう一度感動的に殺すためだけに沖田艦長を再登場させたのと同じようなものではないのか?