電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

法と世間の二重基準

何を今さら的過ぎて書くのも恥ずかしいが、堀江貴文の逮捕以来、ライブドアグループの関連企業が次々脱退し、取引先銀行も次々手を引いているという報道を目耳にして、堀江個人にちっとも好感を持たなかったわたしでさえもなんかいやなものを感じている。
ライブドア摘発直後も、個人の感情として堀江貴文という人物に好感を示すという人物は所々にいたが、個人の好みがどうあれ、法的に犯罪者とされた相手との取引はやめるというのが「大人の論理」なのだろう。
しかしである、かつて、田中角栄ロッキード事件実刑判決が出てなお、地元新潟では圧倒的に支持され続けた。「法治社会のルール」と「世間の感情」は必ずしも一致せず、二重基準が存在するという考え方の方こそ、長らく日本社会での暗黙の「大人の論理」ではなかったか?
まあ、ホリエモン角栄の違いは明確に歴然としている。角栄が、道路や線路の開発などで新潟の土着の民の生臭い生活利権に実体的に密着していたのに対し、ホリエモンの支持層は、実体的損得関係のないまま、なんとなく「若い」「新しい」ものを支持するという付和雷同的大衆の「気分」に支えられていたに過ぎないということなのだろう。
しかしながら、庶民大衆の気分一つで生かされている類の人間にも、法治社会のルールでは罰せられてもなお、それと別の次元で支持される人間というのはいた筈だ。この際、誤解を恐れずに言ってしまうが、わたしは「勝新太郎だったらコカイン吸っても許す」「猪木だったらフセインと仲良くしても許す」はアリだと考えている人間である。河原乞食芸人は社会のルールなんぞ破ってなんぼ、というカブキ者の論理だ。無論、二流の芸人がこの論理に自ら甘えるのは問題外だが。