電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

言論の自由と恥の意識

先頃、横浜事件の再審を退ける判決が下された。
もっとも、恐らく現在の圧倒的多数の日本人にとっては、まったくどうでもよい他人事であろう(というか、横浜事件て何ソレ? という人の方が99.99%以上か)
――なんてことを考えていたら、深夜に旧知の元先輩と長距離通話して、児童ポルノ規制法は言論弾圧管理社会再来の第一歩だと大真面目に論じている人の意見というものを聞かせてもらった。
以前も一度述べたが、わたしは必ずしも「言論の自由」はとにかくいつでもどんな言説でも一切すべて無条件に保護されるべし、という考え方ではない。
なるほど「表現の自由」、「言論の自由」といえば尊重されるべきものと思えるのだが、「ロリコン表現の自由」、もっとはっきり言ってしまえば「未成熟な女子が登場するえろい漫画やゲームを流通させたり消費する自由」というものは弁護しにくい。
さきに断っておくが、わたしも、リアル中坊当時、チリ紙交換に出されていた週刊プレイボーイのグラビアにブルック・シールズが『プリティ・ベビー』に出演したときの(つまり13歳当時だぜ)の写真が載ってたのを見てハアハアしたような人間で、今でも中野まんだらけでえろい同人誌やえろくない同人誌を買うような奴だから、世の児童ポルノ規制反対のロリコンを他人事のようにバカにする資格はない。いや、恥ずべきだ。
が、世の児童ポルノ規制反対論者が、大真面目に「表現の自由」、「言論の自由」といった言葉を使ったり、真剣な口調で、こうした規制は言論弾圧管理社会再来の第一歩だと論じているのを聞くと、どこか違和感を禁じえない。
まず、迂遠な話だが、児童ポルノ規制論議の背景に、ユニセフの関係者など国際的な人権擁護活動家が「子どもの性的搾取反対」を主張している問題がある。
ここで念頭に置かれているのは、ほぼ、発展途上国で年端も行かない子供が人身売買されて売春宿などに売られるケースのことのはずである。
東北の農村では娘の身売りが相次いだ昭和初期ならいざ知らず、今の日本ではその手の話はまずない。家出少女がヤクザに捕まって風俗店で働かされる程度の話だ(ただし格差社会化が進むとこの手の話は増える可能性はある)。
日本国内のもので規制論議の対象の中心になっているのは、ほぼ漫画だのアニメだのゲームだの二次元のフィクション作品だ。
規制反対論者は、二次元のフィクション作品の内容に欲情するのは、実体的な被害者は存在しない行為だ、と説く。
確かにそうなのだが、「たとえ二次元のフィクション作品でも、未成熟な女子を性的対象として描くことが不快」という人間は存在する。
たとえばの話である、「ユダヤ人は虫けらだ死ね! 死ね! 死ね!」と叫ぶナチス将校が英雄的な美しいヒーローとして描かれ、ユダヤ人が一切弁護されることなく醜く虐殺されまくる内容の二次元のフィクション作品を非常に愛読している人がいたら現実のユダヤ人はどう思うであろうか?
(これは逆に、パレスチナ人虐殺を唱えるユダヤ人が主人公でパレスチナ人が醜く描かれる内容でも、あるいはチベット仏教の僧侶を弾圧する中国共産党員が主人公でチベット仏教徒が醜く描かれる内容でも、はたまた日本人の撲滅を唱える韓国人が主人公の内容でも……セルビア人だろうとフツ族だろうと愛知県人だろうと、いくらでも置き換え可能だ)
ま、いくら「自分はあくまで空想としてそういう作品を楽しんでいるだけです」と言っても、嫌がる人には嫌なものであろう。
いや、こう言ったほうがよいか。
ロリコンは虫けらだ死ね! 死ね! 死ね!」と叫ぶ反ロリコンが英雄的な美しいヒーローとして描かれ、ロリコンが一切弁護されることなく醜く虐殺されまくる内容の二次元のフィクション作品を非常に愛読している人がいたら果たして、児童ポルノ規制に反対する論者はどう思うであろうか?
当然、二次元のフィクション作品であってもいい思いはしないよね。
「言論・表現の自由」という普遍的な社会正義を大義名分として、未成熟な女子を性的対象として描く表現もまた出版の自由が保護されるべきだと主張するのであるなら、逆に、ロリコンを差別する主張を唱える「言論・表現の自由」も認めなければ、ムシの良い一方的欲求でしかない、それでは広範な普遍的な支持や理解は得られないであろう。
あるいは、児童ポルノ規制・ロリコン弾圧は独裁的な管理社会復活の第一歩だと大真面目に語る人間は、では、自分の性癖志向とまったく無関係な、たとえばデブ専ホモが弾圧されたり、熟女物AVが弾圧されても、これに連帯・共闘して「言論・表現の自由」を唱えるであろうかw
しかし、本気で、自分はただ「えろい漫画やアニメやゲームが自由に観たい」という自分の個人的性癖志向を唱えているのではなく、普遍的な「言論・表現の自由」のために闘っているのだ、と主張するのなら、そうでしなければ欺瞞である。
「言論・表現の自由」を唱える人間の多くが念頭に置いているのは、実際のところ「自分の言論・表現の自由」だ。みな往々にして普遍的な「言論・表現の自由」を言うなら、自分と敵対的な相手の「言論・表現の自由」も認めなければならない、という問題をよく見落としているが、これは欺瞞である。
しかし実際、とにかく無制限に「言論・表現の自由」が保証された世の中とは、つまり、先のような、ユダヤ人を罵倒しまくるネオナチの言説も、パレスチナ人を罵倒しまくるイスラエルの言説も、チベット仏教徒を罵倒しまくる中共の言説も、日本人を罵倒しまくる反日韓国人の言説も、それをそっくりひっくり返した嫌韓厨の言説も(ほかにもクロアチア人だのツチ族だのマリ共和国のドゴン族だの以下無限に可能……)いくらでも無制限に垂れ流されて良い世の中、ということになる。
さて、そんな世の中になったとして、楽しいだろうか?
わたしは一個人的には、世の中がギスギスしすぎないためにはどこかで、お互いに遠慮し合う謙虚さが必要だと思う。
というわけで、わたし個人は、あまりロリコン弁護を声高に叫ぶことが得策だとは思えないでいる。
そもそも、ロリコンというのは性癖志向であって、生存権のかかった問題とは言い難い。
たとえば愛煙家が煙草を好むのも性癖志向といえる。嫌煙権の普及は愛煙家には厄介だが、煙草を吸わないせいで死ぬということはないのだから反論は難しい。
はたまた、鯨以外に食べるものがない人間が捕鯨を禁止されたら死活問題だが、ほかにいくらでも食べるものがあるなら、「鯨を獲らなくても良いではないか」という意見に反論するのは難しい、これと同様だ。
たとえば同性愛も性癖志向の問題として考えられるが、嫌がるノンケの人間を襲ったりせず、同性愛志向のある人間同士の双方合意であれば、非難はされるべきではなかろう。
が、成熟した男性が未成熟な女子に欲情するという性癖は、世間的なひんしゅくの対象となる。なぜかというと、実行した場合、相手の自由意志によらない一方的な関係になる場合が多いからだろう。
成年男性との性行為込みの交際関係を(金銭的利益が目的でなく)みずから希望する未成熟な女子というのは、まったくいないわけではないだろうが、絶対的に少数である。
直截な言い方をしてしまうと、成年男性だ未成熟な女子と性行為に及んだ場合、女子のほうは痛い思いをする可能性が極めて高いし、妊娠などした場合、母体の身体的負担は成熟した女性よりはるかに高く、ちゃんとした赤ちゃんが産めない可能性が高い。
これでは倫理的に問題視されるわけである。
(まったくの余談だが、逆に、成年女性と未成熟な男子の性行為では、痛い思いも大してないだろうし、成熟した女性が妊娠するのに身体的な問題はない。なんという理不尽な非対称性!
しかし現実には、ロリコンの反対の「成熟した女性が未成熟な男子に欲情する現象」は少ない。これは、昔から、男性が女性に対して「若くて外見が可愛いこと」を求めることは多くても、女性が男性に「若くて外見が可愛いこと」を求める例は少ない(それよりお金を儲ける能力や地位などが重視されるのか?)ためだろうか。まったく皮肉な話である。
※あくまで「成人男性→未成熟女子」に比べて「成人女性→未成熟男子」は、比較的に身体的な問題が低い、というだけで、当然、道義的な問題は別問題として存在する
無論、日本のロリコンの多くは、実行をとこなわない空想で済ませている。
しかし、「自分はあくまで空想としてそういう作品を楽しんでいるだけです」と言っても、それが不快という人間も存在する、という上記の話になる。
といっても、先にも述べた通り、自分はべつに、世のロリコンを他人事として嘲笑う気は一切ない。
自分も恥ずべき存在だと思っている。
そう、個人の性癖志向というのは、場合によっては、恥かしいものなのである。
でも「恥かしいけど、俺はこれが好きなんだ、仕方ない」というものであったりする。
そういう恥の意識込みのうえで主張して初めて、説得力があるものではないか。
ところが、それをすっ飛ばしていきなり「言論・表現の自由」とかいう『普遍的な社会正義』を持ち出したり、大真面目な顔で「児童ポルノ規制・ロリコン弾圧は独裁的な管理社会復活の第一歩」などと言われると、そんなご大層なこと本気で考えてんですか? まずは等身大の自分の欲求の問題でしょ、とツッコミを入れたくなるわけである。
――さて、では、こう言ってるわたしが、もし自分が書いているものが言論弾圧されたらどうするかって?
まずは自分の書いているものを非難する人間の意見を聞いて、そちらのほうが正しいと納得できれば筆を収めることもありえるだろうが、そうでなければ、当然抵抗する。地下出版でも何でも他の手段を講じるだろう。
だが、これは「わたし個人の言論の自由」であって、ぜんぜん普遍的な「言論の自由」の問題とは思わない。だから、世の児童ポルノ規制反対論者がこれに連帯・共闘してくれなくても、連帯・共闘してくれても、どっちでも良いです。