電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

「匿名=客観」ではない

例によってわざと時期を外した後出しジャンケンを書く。
8月30日の衆院選での自民党大敗後、ネット世論では一見して麻生内閣支持の保守派が大多数のように見えたが世間一般ではそうではなかった、ということになった(単刀直入に言えば、一部では勝ち馬に乗ったようなネット右翼嘲笑が噴出した)。
その流れで、ネット上で麻生首相の演説の動画が何万回という再生数を記録したといっても、同一の人物が何度も再生している場合も大いにあるのだから、「再生数=支持者全体の数」ではない、再生数ではなく訪問者数(ユニークユーザー数)で考えるべきだ、という指摘を目にした。
再生数という数字の中では個々の訪問者は匿名である。
2ちゃんねるがよい例だが、どうもネット世論には、記名された出所の明らかな意見より、匿名の集団の意見を信用するような気風が感じられる。これはなぜだろうか?
まず、記名された個人ブログやどこかの新聞社のもとで書かれた記事は、記事を書いた者の主観であることが明確だ。これに対し、多数の匿名の人間の意見は客観であるように認識されているのではないか。
しかし、複数の人間による匿名の意見も、発言者が明確でないというだけで、実際は個々の主観が集まったものだ。本気でこれに気づいてない人が多いのではないかという気がする。
こう書くと袋叩きを受けるかも知れないが、ネット上の匿名空間では、純粋に自発的に集まった人間たちによる場であっても、そもそもの場の作り方(スレタイやトピック名など)によって結果的にある傾向の持ち主ばかりが集まることは往々にして起き、意見の異なる人間は、空気を読んで来たがらなくなるものだ。そうなれば必然的に、その場では偏向した意見が多数となる。そうしてできあがったその場の意見を「この場には同意の人間が多数いるのだから、これが客観的な世論だ」と思うのは短絡に過ぎるだろう。
もちろん、2ちゃんねるでもはてな匿名ダイアリーでも何でも、他では聞けない匿名だから言える本音が読める有用性も、一側面としてはある。しかし、記名=主観だからといって、匿名=客観ではないことはわきまえておくべきだろう。
ステマ(笑)とかな。