電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

無用の用

例によって出遅れた話だが、文部科学省が進めてる「人文社会科学系は廃止」の話について。
わたしは無学歴底辺の見本みたいな人間なので、大学のガクモンについて云々するなどまるで蝿が獅子の群れの運営に意見するようなお門違いも甚だしいものだが、「文系のガクモンって何の役に立つんだよ?」ということなら、歴史とか文学とかその手の雑文書きしか能がない人間なのだから他人事ではない。
人文社会科学系を擁護する意見はすでにいろいろ出ている、人間性のゆとりのため必要だとか、そもそも学問は実用と無縁なのが本来の姿だと居直る意見もあるし、それらも一理あるだろう。
わたし個人のエラそうな見解を述べれば、あらゆる文系分野の学問(文学、哲学、社会学、心理学、歴史学、宗教学、文化人類学民俗学……etcetc)の目的は、「自分と異質な他人を理解すること」だ。
そしてそれは、リアルな実用目的、ビジネスに関係する場合も少なくないはずだ。
たとえば、一部では有名な話だが、韓国のIT機器メーカーが中東で売上を伸ばした理由として、イスラム教徒の生活習慣を研究して「いつでもメッカに礼拝するための方角がわかる携帯電話」を売り出したというエピソードがある。
これは当然「中東に多いイスラム教徒は1日に何度もメッカの方角に礼拝する」という、民族、宗教への知識がなければ思いつけない。海外に商品を売るためにも、売り込み先の国の文化的な習慣、その背景となる歴史を知る必要があるのだ。
では、同時代の異国ではなく過去の歴史を学ぶことにはどういう意味があるのか? これもまた、現代に生きている自分たちとは異なる生活条件では、現在とは異なる思考や世界観認識があることを理解するためだ。
ブータンソマリアなどの辺境国ルポを多く書いている高野秀行は、著書のなかで現地の生活習慣などを説明するとき、カースト制度を日本の近代以前の身分制度になぞらえたり、地域ごとの有力氏族を日本の中世期での平氏や源氏になぞらえたりしている、これが正確かはわからないが、日本人にはぐっと理解しやくなる。

歯科医が文学書を読んで何の役に立つか?

わたしは十数年前、一橋大学の学園祭で阿部謹也教授の講演を聞きに行ったあと、阿部先生を囲む飲み会に参加したら、偶然にも長山靖生氏と同席したことがある。長山氏は日本の近現代史について多くの著作があるが、本業は歯科医だ。そこで長山氏に「文系の教養が歯科医の仕事に役立つこともありますか?」と聞いた。
すると長山氏は、「患者の症状が心因ストレス性のもので、治療のため患者の生活環境を理解しないといけないこともある、そういうときには人間を理解するため文学とかの知識があった方がよいこともある」という趣旨のことを述べていた。
どーですか? 下村博文文部科学大臣どの。
文系教養のなかでも、とくに文学など実用性が乏しいものの最たるものだが、そもそもなぜ人が文学とか読むのかといえば、人間が一生に体験できる人生は1人分と限られているので、異なる時代、異なる年齢性別身分などなどの人生を間接的な形ででも理解するためではないのだろうか。
なお、文系学問が非実用的というのなら反対に「理系学問=実用」と100%言い切れるかも難しい。量子力学宇宙論をどう営業や販売に使うんだよw という野暮なツッコミは抜きにしても、そもそも欧米のアカデミズムでは長らく、実用としての「技術」と純理論としての「科学」は別物だった。
かつて、ニュートンのような自然科学の研究家は油臭い職人技術者を軽蔑し、逆に独学の発明家エジソンは大学の研究室にいる理論家を嫌っていた。世界の大学で初めて「工学部」をつくったのは、新興資本主義国だった日本の東京帝国大学だ。
もちろん、国が金を出している大学で学者が趣味に走った役に立たない研究に没頭するのがよくはないだろうが、「実用的な学問」の定義もそう簡単ではないはずだ。