電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

すべてのエンターテインメントはプロパガンダになり得る

急いでつけ加えておくが、わたしは今回、漫画や映画やアニメやゲームや小説などを「右翼的な作品」「左翼的な作品」に分ける気は一切ない。というか、それは一番不粋でつまらん行為である。
作品が娯楽として面白いか面白くないかと、ウヨ的かサヨ的かは関係がない。というか、人間の快楽原則には、上記の「リテラ」引用記事のようなウヨ的要素とサヨ的要素が常に混在している。悪い権威への反抗を描く作品がみんなサヨ的とは限らず、逆に、忠誠心や戦友愛の物語がすべてウヨ的かといえばそんなことはない。
たとえば『水戸黄門』はどうか? 最終的に庶民を救う黄門様は幕府権力の人間だ、しかし、毎回の悪者は悪代官とか悪徳商人とか庶民をいじめる強者・プチ権力者だ。「領主側の人間はみんな善人、農民一揆の指導者はつねに悪者」なんて時代劇が流行ったためしはない。
忠臣蔵』は主君への忠誠の物語だが、四十七士の討ち入りはときの幕府権力の秩序を乱す行為なので切腹を余儀なくされ、しかしそれゆえ庶民に支持された。
自己犠牲のヒロイズムといえば、日本では特攻と結びつけられるからウヨ的に解釈されがちだが、ヘミングウェイ原作の『誰がために鐘は鳴る』では、ファシスト軍と敵対する人民戦線側に属した主人公が自己犠牲的な死を遂げる。
また、サヨ的立場だと愛国やナショナリズムが悪なら、英国に対するアイルランド人、中共に対するチベット人、イランやトルコに対するクルド人など、少数民族の熱烈なナショナリストによる解放運動とかはどうなるのか?
先に『亜人』などは被差別マイノリティ視点の作品としたが、常に「マイノリティ=反権力的」とは限らない。むしろ、『寄生獣』や『デビルマン』以来この手の作品は、主人公が人外の存在でありつつ、多数派の人類(秩序)の味方をするのがパターンだ。しかし、だからといって多数派の人類がただ善良な存在とは描かれない場合も多い。
それにだ、冒頭で触れたように、今日でこそ左派がさまざまなエンタメ作品を戦争バンザイの内容だと叩いているが、今や古典といえる佐藤健志ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(isbn:4163466606)の手にかかれば、初代ゴジラウルトラマン宇宙戦艦ヤマトもみんな戦後民主主義に毒された作品だったことになる。
……ほらね、こういうことを言い出すと、もはや何がウヨ的で何がサヨ的やら、わからなくなってくる。

ウヨの快楽とサヨの快楽は共通する

思うに、ウヨの快楽にもサヨの快楽にも共通するものがある。それは「大きなものとつながりたい願望」だ。ただし、その対象が、自国、自民族のみか、他国、多民族も含めているか範囲の違いなのだ。右翼は世界を「内と外」に分けて内の味方をする。左翼は世界を「上と下」に分けて下の味方をする。そしてどっちも、自分の属する陣営(ウヨなら国家や民族、サヨなら階層や社会的少数派身分)に甘いw
ナチスの宣伝大臣ゲッベルスは、クライマックスで労働者が資本家に暴動を起こす『メトロポリス』を絶賛して、監督のフリッツ・ラングユダヤ系!)にナチスへの協力を求めた。すぐれたプロパガンダ映画技法は、右派にも左派にも流用できるのだ。
で、今回の結論を述べると、すぐれたエンターテインメントは、しようと思えば、ウヨ的解釈もサヨ的解釈もできる。逆に、先に触れたウヨの快楽、サヨの快楽をどちらもまったく否定した「無色透明のエンターテインメント」があったとしても、面白くも何ともない。良くできたウヨないしサヨ的プロパガンダ作品も大量に存在し得るが、わたし個人の好みとしては、様々な要素が入りまじった結果、ウヨだかサヨだかわけがわからんぐらいがちょうど良い気がする。