電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

家は有れども帰るを待たず

『機動戦士Zガンダム』が映画化、ということで、復習のためTV版のDVDを観返し、富野由悠季の小説版の方も読み返す。
やっぱ、スペースコロニーとは、歴史の無い人工のニュータウンみたいなものなのだろう。
ニュータイプというのは、少々直截に言えば「良くも悪くも、土着の地縁血縁や既得権益などから切り離された、自由な、新しい若い世代」のメタファーとも取れなくない。
しかし、そういう新しい環境に順応進化した人間でも、個々人の資質、人格次第では人はそういう良く変われない、ということなのだろうな(←通俗的な解釈だ)
『Z』をリアルタイムに観た当時は、年取ったシャアとアムロの鬱屈した感じが格好悪く、作品の雰囲気を暗く重くしてるのがなんか嫌だった。
が、この歳になって観返すと、そのアムロとシャアの大人になりきれてなさ具合(またそれとの格闘)がやけにリアルに感じられるから怖い。
何か、為さねばならないことの渦中にある時(アムロとシャアなら一年戦争当時)、人はがむしゃらに動く。しかし、それが過ぎてしまうと、アムロみたいに保身意識に安着して無気力にもなる、それを避けようとするシャアも「できることしかしない」という人になる。
やっぱりニュータイプたる者モビルスーツに乗らなけりゃ格好よくない。魅力的な男というのは、時として「大きな子供であることを許された奴」だったりする(野球少年がそのまま大きくなった野球バカ一代とか、万年映画青年の映画監督とか)。
しかし、そういう「格好よい男」であることを期待する女にそうけしかけられて、モビルスーツに乗って外に出ずっぱりになると、けしかけた女の方が家に残され疎外されてしまう皮肉。

「帰る」ということの中には、必ず、振り返る魔物がいる。
この悔いや悲しさから逃れるためには、要するに、帰らなければいいのである。そうして、いつも、前進すればいい。ナポレオンは常に前進し、ロシヤまで、退却したことがなかった。けれども、彼ほどの大天才でも、家を逃げることができないはずだ。そうして、家がある以上、必ず帰らなければならぬ。
坂口安吾『日本文化私観』

そうして、男どもは家に帰らずモラトリアムを続ける。
いや、わたしも、この歳になっていまだに、一番自由を感じる時間は、自宅の自室ではなく、仕事帰りに本屋で立ち読みしたり、ホビー屋、パソコン屋の棚の前をふらついてる時なのだから、人のことは言えない……。