電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

『大航海』読んで大後悔(←いや、すみません……)

高田馬場芳林堂で何気なく新書館の『大航海』
http://www.shinshokan.co.jp/daikoukai/dai-index.html
最新号が「ファンタジーと現代」って特集で、小谷野敦の書いてた「ファンタジー君主制の夢を見るか?」という記事が気になって読んでみる。

NHKの『プリンプリン物語』の再放送の話から説き起こして、建前として万人平等の近代的価値観があまねく普及した今日では、逆説的に、娯楽ファンタジーの世界では、王侯貴族がいて血筋や家柄というものが意味を持つ世界が好まれることについての考察がなされている。

そこは小谷野のことだ、単純な保守反動でもなければ近代礼賛とも違う。
論旨の基本としては、そりゃ基本的には現代社会の方がよいだろうとしつつ、万人平等なら世の仲良くなるかと言えばそうとは限らず、第二次世界大戦後、近代国家の下地も無いままいきなり独立したアジア諸国ポルポトやマルコスや金日成のような独裁者が現れる一方、現代なお王制の続くイギリスやオランダやスエーデンみたいな西欧君主制の国の方がリベラルだったり、という皮肉な逆説や、また、エリザベス女王やエカチェリナ女帝やスー・チー女史や田中真紀子を引き合いにして、君主制や二世政治家の方が女性の指導者が台頭しやすい、というこれまた皮肉な逆説をさらりと挙げてたりして興味深い。

そのま続けて荷宮和子の「団塊ジュニアはなぜファンタジーにはまるのか?」という記事を読む、まあ、小谷野の論考と主題はかぶってるんだが、これが現状認識には同感できる部分がありながら、残り半分は、なんだか「ああヤダヤダ、これだから庶民大衆の心がわからねえインテリはよぉ」とならざるを得なかった。

荷宮女史の論考は、まず『ハリー・ポッター』シリーズでは、結局、主人公が、なんか凄い魔法使いの息子だった、という血筋や家柄の恩恵によって、一切努力の無いまま一方的に都合よく話が進むことへの違和感から始まり、人気のあるファンタジー作品ってのはこんなんばかりだという。つまり、平民も貴族も同じ、努力すれば皆偉くなれる、というのが近代のタテマエなのに、娯楽作品ファンタジーではそれを自ら否定するような価値観の方が蔓延していると嘆く。

(じゃあ荷宮女史には、「ナポレオンは皇帝になったんだから俺も成り上がってやる」という『赤と黒』のジュリアン・ソレルや『罪と罰』のラスコーリニコフみたいなの主人公が、「近代」的だから良いってことなのか?)

で、その論考は、かつては立身出世の幸福が叶わないのは身分制度の不平等のためであったが、そんな制度は壊れて、誰もが努力すればいい大学、いい企業に入れて成功者になれるはずの世の中では、自分が負け組である=自分は努力と能力が足りない、自業自得である、ということが認められない人間というものがいる、という話につながってゆくわけだが、要するに彼女は生理的にドキュンが大嫌いなのであるらしい。

何しろ、荷宮女史は、ある意味じゃ所詮たかが娯楽作品、そう割り切ってこそプロ意識の筈のものを捕まえて、作中で不用意に「殲滅」とかいう言葉を使う庵野秀明は無自覚な男性原理だとか、日本の漫画やらアニメやらのファンタジーの大原形を作った祖の手塚治虫が偉大だったのは、武器へのフェティシズムなど男性性が希薄で、出てくる女性像が基本的には近代的自立的な女性ばかりだからだとか、宝塚歌劇はただ女性だけで演じられる世界ということが即ち女性の自立表現の象徴だったはずだといって、自分より若いただのミーハーなヅカファンの態度を嘆いてみたりといった具合である……

こういう人間には、到底、暴走族が日の丸と特攻服を愛し、
http://www.axcx.com/~sato/bq/03.html
X-JAPANYOSHIKI天皇の祝賀祭に曲を捧げる感覚
http://www.axcx.com/~sato/senbikiya/j-pop/x01.html
とかってのは、永遠に理解不能なんだろうなあ。
インテリは大抵、庶民大衆を軽蔑してるくせに、同時にその性善性を信じたがってるからこういう変な不満を抱えることになる。

残念ながら、か弱い庶民大衆ってのは受動的なのである。庶民大衆が王侯貴族とかの天与の権威には従順なのは、自分たちの無力を知っているからなのだ。しかしだからこそ、国家とか王様とかの、共同幻想として陶酔できるロマンを求めるわけである、で、既存の権威に乗るわけだ。それはその場限りのものでもあり、しかし本気だったりもする。
自立したジュリアン・ソレルやラスコーリニコフになろうとする立派な「近代人」なんてのは、努力すりゃ見返りが得られるだけの優秀さのある奴だけだ。残念ながら皆が皆そうではない。

それに、近代的・進歩的価値観が、だからイコール力押しの男性原理と反する筈、という見解も杜撰すぎる。例えば、かつてマリネッティらイタリア未来派は、ムッソリーニファシスト党を支持した。機械的、近代的なる価値観がファシズムのマチズモ性と親和的なものだと思ったわけだ。

手塚が男性原理的ではなく中性的だというのは確かによく言われる、わたしも手塚は戦後日本の大衆にもっとも大きな影響力を持った偉大なインテリの一人だと思うよ。だが、彼は、終戦直後当時の日本ではまったく例外的な少数者の上流インテリの医学生で、ずばり宝塚で育った、なんて環境の特異性を捨象して考えるわけにはいかない。つまり圧倒的多数の日本の庶民とは大きく違うのだ。
実際、手塚自身、60年代劇画ブームなどで自覚したろうが、自分はドキュンをわかってない、自分の作品世界にはリアリティが半分しかない、という思いがあったはずだ。

これだからサヨク女の「潔癖症」ってもんは――と一日うんざりしたのだが、翌日『諸君!』の「麹町インターネット測候所」を読んでまた全然逆の意味でうんざり感を覚える。こっちはウヨ男の「下品さ」へのうんざり感である。議席激減の社民党が自業自得で同情の余地無し、ってのはまったく同感、しかし、さんざっぱら「サヨ」を批判しつつ、じゃあ自らが打ち出す価値観も無く、無責任に「ウォチャー」という立場からの他人の嘲笑のみを垂れ流す行為に恥ずかしさを一切感じない姿勢にも、別の意味での嫌悪感を覚えずにいられない。

あーあ、しっかし、なんでこうヤなものばかりに目が行くんだろう。風呂入って寝るか。