電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

「お天道様」と「大地」

さて、10年ばかし前『オウムと近代国家』(isbn:4931062113)の中で、弁護士の三島浩司氏は、かつての日本には、法の裁き以前に「お天道様に恥ずかしくないのか?」という世間の論理があったことを指摘している。で、例えばこれがロシアであれば、ドストエフスキーの『罪と罰』にあったように、強欲金貸し老婆なんかぶっ殺して何が悪いという理論武装があってもなお「大地にひざまづいて接吻して罪を告白せよ」となると述べている。
法的には無罪となった犯罪者でも、被害者や世論の感情は許さない、ということがたまにある。わたしはこれは、社会のルールからはおかしくても、人間としてはやむを得ずもっともなことだと思う。
1960年代に起きた狭山事件は、冤罪説が非情に濃厚で、状況証拠から容疑者の可能性のあった人間が何人も自殺や怪死を遂げており、差別意識にもとづいたらしい警察側の強引な捜査方針やら、地元民の間に渦巻く疑心暗鬼やら、資料を読んでいると、戦後20年近くも経ってこんな暗黒事件があんのかよ? と背筋が寒くなる思いがする。しかし、この犯人として逮捕された石川氏は、世の法的裁きにおいては31年間を獄中で過ごさせられたが、多数の支持者に支援され(その中には、ま、ゴリゴリのいやな人権左翼もいたろうけどさ…)、仮出所して今もたくましく生きている、彼が冤罪であったなら、たとえ世の法的裁きが彼を殺人犯と記録しても、人間の尊厳は彼の方にあると思うべきだろう。
そしてもし仮に、その自殺やら怪死やらした容疑者の方が真犯人であったなら、そいつは、世の法的裁きにおいては何ら罰せられなかったとしても、良心の呵責に耐えかねてか、犯人とバレた時の世間の指弾が怖くてか、まさに「お天道様に合わせる顔」なく、淋しく恥辱を抱いて死んだということだ、それはハッキリ言って「アホ」であろう。