電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

カッコよく見える闘争、カッコよく見えない闘争

黒澤映画の『七人の侍』が、カッコよく見えるのは、野武士の脅威にさらされたか弱い農民を守るために闘うからである。
かつての時代の「左翼」(「サヨク」ではない)は、建前としてであれ、自分の社会的不満より世界の飢えた人民の救済解放を主張した。かつての時代の「右翼」(「ウヨ」ではない)たとえば皇道派青年将校などは、自分の社会的不満より日本の伝統の連なりや郷土やそこに生きる人々の保護を主張した。
つまり、一応、自分個人の権利要求より、「世のため人のため」という自己犠牲精神があったわけだ、こういうのは、左右問わず(そこに矛盾なく)尊敬できると思っている。
が、よほど食うや食わずの状況にある当人でない限り、いちおうは飽食の先進国たる現代日本にあって、個人の権利要求のための主張というのは、どこかいまいち共感しがたい。
本来、世の中には、公的に訴えて解決すべき種類の問題と、私的領域で当事者同士の話し合いで解決すべき種類の問題とがあるとは思う。ゆえに、3月16日のコメント蘭にも書いたが、わたしは基本的に、大の男が私的領域の欲求を公的領域で主張するのは恥かしいと思っている(ひょっとすると、わたしの頭が古いのかも知れないが…)
わたし自身は煙草を吸わないが、禁煙ファシズムと呼ばれるものに違和感を持つのはこのためだ。「私は煙草の煙が嫌いだ、ここでは吸わんでくれ」というのは、本来は、私的領域での個々人の好みの問題だったはずである。
ただし、確かに煙だけでも女性や子供には有害なのは事実なんだし、とにかくどこでもここでも遠慮なく吸って吸殻捨てるなんてのはもってのほかで、公的権威からそう言われずとも、自ら他人の迷惑を考え、最低限自発的にマナーを守るのが本来「大人の嗜み」だったのだが、それを守らないアホが増えたせいで、公的権威が大々的に喫煙規制に乗り出さざるを得なくなったのだとすれば、それは情けない事態だとは思う。
ただ「マナー」とは明文化されていない不文律で、個々人の良心と倫理観に委ねられている。かつては明文法などなくとも、それが社会の安定を保ってたんだろうが、皆が皆、自分の権利主張ばかりになるのはどうも世の中がギスギスした感じがして好きになれない。